日本ガルチェン協会
◆アティシャ「菩提道灯論」オンライン勉強会
ガムポパ大師『解脱の宝飾』勉強会は、2021年9月末に終了しました。
2021年11月から、アティシャの「菩提道灯論」勉強会を開始しました。
テキストは『解脱の宝飾』の付録部分の和訳です。
今までと同じく、2週に一度のペースで毎回担当制で行っています。参加ご希望の方はお問い合わせください。なお最新の録音と資料は当ホームページ上「もっと見る」「アティシャ」に収録しています。
◆2018年のドルズィン・リンポチェのチベット仏教リトリート・感想文
まだほとんど未消化で、うまく言葉にならないのですが、「前行」で「無常」について聞いたことで、「無常=大事なひとも物事もすべてが無くなってしまう=虚しい」というこれまでの思い込みがひっくり返されてしまいました。そして「無常=すべてが移り変わっていく」のに同じ状態に見えるのは、絶え間なくでそうなるような働きかけをしているからだと思うようになりました。私の中に「ある」(と思い込んでいる)怒りや悲しみも、放っておけばどんどん移り変わってやがては消えてしまうのに、私が「不断の努力でつかみとって意識し続けている」から「ある」んだと思うようになりました。ドルズィン・リンポチェさまのお話を聞いている時に「ああ、私は本当に煩悩にまみれているんだなぁ」とはっきりと思いました。いつでもどこでも頭の中に、ありとあらゆるマイナスの感情やそれを正当化する身勝手な理屈やあれが欲しいこれは嫌だという思いが絶え間なく流れ続けていて、それを手当たり次第につかみ続けていました。それが、「煩悩をなくすことはできないが、引きずられないようにすることはできる」と聞いて「煩悩が流れ続けていても触らずにそのまま流れ去るままにすればいいのかな…?」と思うようになりました。そして、煩悩や悪い行いにつながる考えをつかんでしまっている時には「これは今、どうしてもどうしてもここで考えなければならないことかな?」と自分に問いかけると「そうでもない」と手を放すことができるかもしれない、とも思いました。今はただ(できているかどうかはわかりませんが)、毎分毎秒流れ続けてくる煩悩たちに少しでも気づいて手を放せるように、問いかけを続けてみようと思っています。
―― Iさん
私は今回、帰依戒を受けさせていただこうと思い参加いたしました。チベット仏教を学びたいと思ったのは、私もこの方のように生きていきたいと思った方々が、チベット仏教を学んでおられたからです。ですので、私の動機は”私”が主語で、「私がアドラーの先輩方のように生きていきたい」というものでした。 しかし、リンポチェは「動機を正しく持つことが大事。一切衆生が苦しみから逃れら れるためと思って修業を行ってください。」とおっしゃられました。私はこの時、頭をガーンと殴られたように感じました。こんな初歩的なことを言って恥ずかしいのですが、私の動機は間違っていると、この時初めて気づきました。そして、帰依戒を受けることに一瞬ひるみました。この先死ぬまで、すべての生き物が苦しみから逃れるためと思って行動できるのか?と思ったときに、害虫や苦手な人の顔が浮かびました。本当に、この虫やこの人のためを思って行動できるのか?ともう一度自分に問い直したときに、害虫に関しては”できる限り”という言葉がつきますが、「とにかくやる」と思いました。 正しい動機をはっきり自覚して帰依戒を受けることができたことで、日々の暮らしが少し変わってきたように思います。苦手な人と接するときに、「この人が苦しみから逃れるために行動するのだ」と意識すると、プラスの面が見えてきたり、陰性感情が起きたときに、「この人が苦しみから逃れるために行動するのだ」と思うと、陰性感情が下がり、相手の筋を考えたり勇気づけの歌を思い出したりして協力的な方向に行動できることもあります。しかし、動機のことなどすっかり忘れ、すぐ人を裁いていたり、裁いていることに気がつかなかったりすることもあります。正しい動機を意識することで、自分の傲慢さがより見えてきました。まだまだ修行が足りませんが、「実践をしていくことが非常に重要です。」とおっしゃったリンポチェのお言葉を胸に、精進していきたいと思います。
―― Hさん
母の実家がお寺で、夏休みには大勢のいとこたちとお経をあげるなどしていましたのでもともと仏教には親しみがありました。ただ、おじやおばなど僧侶も多かったのですが、よく知っている普通のおじさんおばさんだっただけに世俗を超越した感はなく、葬式仏教というイメージを超えるものではありませんでした。お経の現代語訳などを読むこともありましたが、これだと思うような感触は得られないまま日々過ごしていました。今回参加したのは、チベット仏教のお坊様は違うよ、という話を聞いて、半信半疑で生身のチベット僧にお会いしてみたいという思いからでした。結果は....はい、たしかに違いました。参加してよかったです! ドルズィン・リンポチェの柔らかで力強いたたずまい、おそばにいると、そこに集う人たちの性別、年齢、社会的地位などなどの違いを云々する必要を感じない、平等な雰囲気に静かに感動しました。仏教を生きておられる方だ、商売でお話されているのではないというのがよくわかりました。印象に残った質疑がありました。輪廻を信じられないので信じられるようにして欲しいというような質問があり、リンポチェは、あなたが信じないものをどうして私が信じさせることができるのでしょうか。よく自分で分析してみることが大事だ。そう考えるのはいいことだ。というような回答をされていて、本当に誠実で信頼できる方だなと思いました。私もまだまだ信じて帰依するというところまでたどり着けていないのですが、今回教えていただいたことをよく考えて納得して、そして実践して、次回は帰依戒を受けられるようになりたいと思っています。このようなご縁をいただきまして本当にありがとうございました。ドルズィン・リンポチェ、協会スタッフのみなさま、一緒に参加されたみなさま、そして留守を守ってくれた家族に感謝します。
―― Kさん
昨年、初めてチベット仏教にふれ、私は人生で長らくわからないと思っていたことを知ることができました。今、それを言葉にすると、それは「慈悲の心」でした。リンポチェからの慈悲のこころによって、私の構えが、心が変われたように思います。帰宅後、父と母に、京都でチベット仏教のお坊様から法話をきいてきたよ、と話しました。昨年もリトリート帰宅後も父には三毒の話だとか赤いお薬をお供に伝えていたのですが、今年は帰宅後、「パパは善行を積んできたんだ」ということを伝えました。三毒の話とともに、父はうん、うんと頷いてきいてくれました。父の表情がやわらいでいます。とてもうれしいことでした。リトリートで得たものはもっとあって、伝えたいですが、今はここまでしか言葉に表せません。リンポチェの教えに涙が湧き出て大変でした。今年はリンポチェに直接ご質問することはなかったのですが、リンポチェのお話をきくこと、ほかの方のご質問からの答えをきくことで、私の中に湧き上がり、流れ入ってきました。それはやはり慈悲のこころです。お経の読誦します。復習します。場を作ってくださった皆さま、ともに過ごしていただいた皆さまに感謝いたします。
―― Wさん
昨年に続いて、今年も金剛薩?の灌頂と六波羅蜜の法話2日間、リンポチェから教えを頂くご縁に恵まれました。一年ぶりにリンポチェのお姿を拝見した瞬間、自ずと涙が溢れました。私は頭を下げるのが精一杯だったのですが、リンポチェは「あなたのことを覚えています」と笑顔で声をかけてくださいました。他の皆さんにも同様で、リンポチェは、日本のサンガのことをしっかりと覚えていてくださいました。本当に有り難い事です。六波羅蜜のご法話は、たとえ話をいくつも使い、私たち衆生に解りやすくお話しくださいました。法話を頂く中、自分がいかに我執にまみれているか、怠け心があるのか、耳が痛くなるお話がたくさんありました。今世で人身を得た事、カギュ派の教えに出会えたことは、因果の報に従えば過去世の功徳だと思いますが、煩悩にまみれた生活をしている私に、再び仏様のお慈悲、智恵を頂けたのだと捉えています。 出来ることから始めようと思い、何度も繰り返しておっしゃった「実践」を心がけて暮らしていますが、我執や怠け心は健在で、仏の境地を得るのは程遠いです。でも、それに気が付いた時、軌道修正し、1歩でも前に進むよう暮らしています。そして、瞑想はやはり大切だと感じ、少しの時間でも毎日やっています。最後に、通訳してくださった温子先生、とても解りやすく伝えてくださったおかげで、不自由することなく学ばせて頂きました。心から感謝申し上げます。
―― Oさん
今回のリトリートは、全プログラムに参加しました。リトリート中、ドルズィン・リンポチェは、私たちに積極的に質問をするよう常に勇気づけられました。私も思い切っていくつか質問をしました。最初はおそるおそるという気持ちでしたが、そのうちに質問をするのが楽しくなって、次は何を質問しようかなぁ、と考えるようになりました。リンポチェの回答は、どれもすばらしく勇気づけに満ちていて、法に基づいた正しい見解を示してくださいました。それによって、私自身昨年よりは少し理解も進み成長したかなあと喜んでおります。あとで、リンポチェのFBを見ると「たくさん質問が出て、本当に嬉しかったです」と自らのお言葉を述べられております。リンポチェが喜んでくださったこと本当に有難いことです。また、日本人のわたしたちが読めるように、日本語で表現してくださっていることにも、常に衆生のことを考えてくださっている表れであり有難いことです。
―― Kさん
3月から仕事が土日出勤になり、しかもリトリート期間中の休みがうまくあわせられなくなり、参加は全て諦めました。それが、直前に6日だけは休めることになり、急遽東京から日帰りで参加することができました。六波羅密の法話の前半のみでしたが、参加してリンポチェの話を聞いてみて、その日に来られた意味がよくわかりました。いかに自分が「ケチ」に凝り固まっているか、どれ程布施をしていないか、どれ程怒りで功徳を台無しにしてきたか…。去年のリトリートに出て、シンガポールのアミデワリトリートにも参加した、という慢心があることにも気がつきました。理解はおろか、知ることすら満足にできていない自分。そんな自分をあまりのお慈悲からリンポチェが呼んでくださったんだろうと思います(涙)。仕事の環境がまた変わるまで、これから暫くはリトリートに出にくくなると思います。それでもできることを考えて、できることをするのだと、ドルズィンリンポチェやガルチェンリンポチェから言われたような気がしています。知らないよりは知っているほうがマシ。でも理解して実践しないと前には進まない。どうも同じ失敗を過去生でもやらかしているようです。ドルズィンリンポチェは、かつても私のお師匠様だったみたい。お会いするたびにそう感じます。得難い人の体を得て、仏教の教えに出会った今こそが、私の頑張り時のようです。
―― Iさん
「前行」を学んで人身を得、日本に住み、インド人が一千五百年、チベット人が一千年伝えてきた仏教に出会えたありがたさに、今まで苦としていたことが小さく感じられました。今年のリトリートでは嫉妬の質問がありました。あれこれおそわりましたが、「自分で慈悲を起こす・慈悲と忍辱・いつも慈悲と忍辱で嫉妬がなくなる」これを信じて小さなことから実践しようと思います。口調のいい日本語のテキスト、通訳の先生、スッタフの方、皆様に感謝いたします。
―― Tさん